Hang gliding九州一人旅 一日目 (耳納学選に行ってきた。プロローグ。)
私は、早送りで再生されているような時速300キロの車窓を流し見ながら、眠気に身を任せていた。 この快適な列車は、空飛ぶ絨毯のように、地面から数十センチを浮いているかのように、ほとんど上下左右微動だにせず突き進んでいた。 テーブルに置いたコーヒーの黒い液面は、時折みじろぎするように揺れるだけ。 思えば新幹線に乗るのは5年ぶりとなる。 たしかその時は岡山から東京まで乗ったから、岡山以西の新幹線は初めてだ。 そして、人生で二度目の九州。 しかし、目的は二回とも同じだった。 同じ街の、同じ景色を見にゆく。 まるで故郷に帰るようなきがする。この地球上のどこにもない、故郷に。 昨日、夜眠りにつくとき、ひかえた翌日には重要な仕事は何もなかった。 ただ、生きている。 そんな明日がやってくる。 この一週間はなにやら家に帰れない日々が続いたので、 何もすることがないという社会性動物にとって最大の不幸もまた、噛みしめると幸福のような味がした。 そして、そんな日々に妨げられてしまい叶わなかったことを思い出した。 九州、耳納の大会に行きたい。 星空に三層の発泡コンクリートと軽量鉄骨を重ねたその下で眠りにつきながら、そう思い立った。 行動とは。思い立った瞬間からはじまる、自由というものを実感する儀式のようなもの。 目が覚めて、通勤ラッシュに揉まれながら都心へ向かういつもの風景。 だが、耳元で鳴るダンスミュージックはいささかアップテンポで 足元で刻む轍の音に、もっと早くと急かしている。 8時半、東京駅の新幹線の乗り場に着く。最後にここを利用したのは十数年前だろうか。 まだ小さい子供の頃の話だ。 だれもが忙しげに通り過ぎる朝の時間帯にあってなお、ここは旅の始まりの匂いを湛えていた。 自由席券を買って、乗り込む。 私は自由席というものが好きだ。扉があいたとき、どこに座ろうか。そんなことを考える。 まるで並んだ料理に目移りするかのようだ。 三列シートの窓際。 反響音が分厚いガラスにかき消され、もはや静寂を反射する新幹線ホームが見える。 その向こうには、私の顔が反射して浮かんでいた。 その表情は、笑っていたかもしれない。 昔の事なのでよく覚えていない。 しっとりと動き出した車体は、するすると音もなく加速してゆく。 今、このビルの街に負けず劣らずセクシーな肢体を走らせていることだろう。 人工物が織りなす、合理性という名の装飾。 人間はこんなにも不合理だというのに、その製造物は時に完璧と呼ぶべき美しさを手に入れる。 それはハンググライダーとておなじこと。 あれ以上シンプルに、空を飛ぶことなどできるだろうか? 研ぎ澄まされ、そぎ落とされた芸術品は、この美しくない世界に侵食されることなく在り続ける。 合理性という名の装飾は、多分な耐食性を兼ね備えているのだ。 ふと気が付くと、湯河原の街が目に入った。 寂れはてた温泉街の、色あせた色彩。 私の思い出の中の世界と同じカラーリング。 溶け合って、意識がほぐれる。 次に気が付いたときは名古屋にいた。 いかにも喧噪を生み出していそうな街も、新幹線の分厚いガラスを貫くことはできずに慳貪としていた。 停車してドアが開いた瞬間、漏れ入ってきた騒音も、ドアが閉じればすぐに空調に吸い込まれていった。 絶対的に静寂な車内。 胡蝶の夢のように明滅を繰り返す私のうつつはそのまま博多まで繰り返した。 見た夢も覚えていない。 見た景色も、たいして覚えてはいない。 博多駅について、星座のような形をした近郊路線図をにらみつけた。 二年前に行ったあの駅は、なんという名前だっただろうか。 一番はじに輝いていたように思う。久大本線の果てにその駅を見つけた。 田主丸 いったいこの世界で何人がその街の名を知るだろうか。 そこに広がる空の鮮やかさを、いったい何人が知るだろうか。
工藤匠悟

